8月6日:乗鞍高原温泉ユースホステルにて。

登場人物:旅のヒゲおじさん、某県庁の公務員氏、ロードレーサー氏、自分


 風呂に入る元気もなく、部屋で大の字にどてーっと横たわる。いや、ホンマ疲れたわ。同室4人のうち、3人が自転車だった。僕を追い抜いたロードレーサー氏と、某県庁の公務員氏。

 6時から夕飯になったので、食堂に集合する。家族連れや中年女性一人旅の方などがいた。ご飯の入ったオヒツ、自転車組のテーブルだけあっという間になくなり、オヒツのおかわりをする。そりゃあ食うよなぁ、これだけ峠を登ってきたのだから。茶碗が小さい。どんぶりで食べたい。

 そしてこのとき自分で驚いたのが、箸をちゃんと持てなくなっていたことだ。持ち方を忘れたわけではない。長時間ハンドルをぎゅーっと握りしめっぱなしだったのですっかり握力がなくなってしまい、きちんと箸を操れないのだ。特に親指、人差し指、中指に力が入らない。これにはまいった。ご飯を箸で「すくって」食べることはできるが、驚くなかれ、ハンバーグを割くことすらできない。力が入らなくて。仕方がないので直接ハンバーグに箸をブスリと刺してクチまで持っていく。行儀悪い。

 隣にいた家族連れの、食べられないおかずも余分にちょうだいし、ようやく満腹となる。部屋に戻ってまたドテーッと寝っ転がって休憩だ。そしてこの日の同室のメンツは強力だった。旅行の話やら社会情勢の話やら、えらく深い話が始まったのだ。これをリードしたのは自転車ではなく自動車でやってきたという旅行好きそうなヒゲのおじさんだ。僕もムクッと起きあがって参加を試みる。

 話の途中で、まだ入っていなかった風呂につかり(硫黄臭のする正統派の温泉)、ようやくサッパリする。

 昔からあちこちを旅行して回ったらしく(それこそインドに何か月とかいうスパン)、話の切り口が(旅行に限らず)いろいろあり、教養が深い。会社ではエース格ではないのだろうが、たまにいるんだよなぁ旅先には。仕事以外の面でこういうカリスマっぽい人が。僕はもうほとんど話にはついていけず、フムフムと3人の話に耳を傾けるのみだ。疲労困憊の中、なかなかエネルギーを使うことだ。

 ヒゲおじさんから仕事は何をやっているの?と聞かれた。で、出たー。定番の話題だ。何をやっているのか。市役所をやめてから今までは、ある知人の仕事を手伝いつつ、その実ほとんど遊んでいた。しかしこの旅行から帰れば仕事が始まる。そこでこう答えた。

 「どこかに勤めるとかじゃなくて、仕事単位で契約して受注して働く人です」・・・こういう人を何と呼ぶのだろうか?職業は何と答えればいいのかな?「じゃ、フリーランスというか、そういうかんじなんだ?」・・・そうかフリーランスというのか。「でも3月までは市役所に勤めていました」「えー!何で市役所やめちゃうのー!?安定してるのに」・・・もうそういう反応には慣れた。しかしこのヒゲおじさんは次がちがった。「市役所やめちゃうっていうんだから、逆にそれは見込みあるねー」・・・それはこれから次第だが…。けれどそんなカッチョいい理由だけでやめたわけではない。

 その後もいろいろな話が飛び出したが、僕とロードレーサー氏以外の、もう一人の自転車の人が某県庁の公務員であることが明らかにされた。必然、話は行政の話にもなる。役所は何も年がら年中ヒマしてるわけではない。某県庁氏は言う。「うちの県庁、毎年のように自殺者出してますよ」僕も続く。「ああ、僕がいた市役所もそうですよ」そう。苦労している人は苦労しているのだ。そして人の数は年々減っていく一方なのに、仕事は増える一方、しかも一部のデキる人に集中する傾向がある。それは民間企業でも同じことだろう。

 するとヒゲおじさんは言う。「人が足りない、人が足りないって言ったって、それは役所があれもやるこれもやるって自分たちの仕事をどんどん増やしているからじゃないの?」僕は言う。「けれどあれもやれ、これもやれって言ってくるのは、お客さんというか市民の方ですよ。」ヒゲおじさんは言う。「だから、要するに有権者がバカなんだよな」…それを言えるのは公務員ではないからだ。僕は言った。「でもその有権者がバカだとかいうのは、公務員がぜーったいに口にしちゃいけないんですよ。タブーなんです。有権者は自分たちのお客さんだし、会社の社長というか首長はそのお客さんが選んだんだからまちがっているわけがないことになってるんです」

 ホント、これこそが自分が市役所をやめた理由の核心かもしれない。日々お客さんと接している職場にいれば、経営陣たる役所幹部の方針に疑問を持つことは多々あるのだ。こんなことはお客さんのためにならない。こんなことを続けていてはいつか崩壊するぞ。…これまでも多くの先輩方が心の中で何枚もの辞表を書いてきたことであろう。

 ところが役所のトップは、他ならぬお客さんによって選ばれたトップなのだ。つまり選挙の審判以外に責任を問われる機会は現実には一切なく、極端に言えば選挙に受かればやりたい放題できるということだ。そして組織の内部では命令は上から下への一方通行であり、下々の者の声を聞くと言うことは、「ちゃんと聞きましたよ(聞いただけ)」という役所内の「合意」を得たとするためのアリバイづくりでしかない。まぁ、民主主義で首長を選出する以上はついて回る問題だ。

 イラクに派兵された前線の兵士達に、「この戦争に意義はあるか?」などと上に向かってほえる権限などない。大統領が正義だと言えばそれは正義なのだ。それ以外に(軍隊の中では)答えはない。あとは目の前の任務でベストを尽くすのみである。行政もいっしょ。

 このヒゲおじさんのように深い分析が出来る人と話すとなると、自分の方も生身の自分が全力でモノを考えないと、とうてい発言できない。しかし、僕は実力不足だった。

 こうして夜が更けていった。下界よりも涼しいが、思ったほどには涼しくない…。